夏が好きだけど夏は嫌い

私は夏が好きだ。

青々とした木々が風に吹かれて揺れる様子は好きだ。

蝉のうるさい声も好きだ。

うだるような暑さも好きだ。

風鈴の音も好きだ。

夏祭りの喧騒も、花火の独特のにおいも好きだ。

けれど去年は。

誰とも会わなかった。

ずっと部屋から出られなかった。

皆が優しくなくなった。

夏休みが永遠に続くような感覚だった。

友達のいない夏休みほど暇なものはない。

バーベキューやキャンプなんていう大学生らしいことは何もできなかった。

概念としての夏が恋しくてたまらない。

今年もきっと去年を繰り返す。

私は夏は嫌いだ。

生きる理由より死にたくない理由を見つけよう

集中力が続かないタイプの人間

私はあまり集中ができないタイプです。YouTubeにアップされている10分もの程度の動画は半分ぐらいまでしか連続してみることができないです。

また内容も頭に入ってこないので何回にも小分けにしてみています。

過去に受けた国語のテストでも問題文を最後まで一気に読み切ることができないので問題文に線を引いて「ここまで読む」「ここから読む」と区切りをつけて読んでおりました。

こんな自分でも案外生きていくことができるので「テストオワタ/(^o^)\」という人も悲観しなくてもいいかもしれません。

雑談おわり 

生きる理由を見つけるのは難しい

本題です。

『あなたはなぜ生きていますか?』といわれて理由を即答できる人は存外多くありません。ただ惰性で生きている人がほとんどです。

しかし、『今ここで死ね』ともののけ姫のようなことを言われてアシタカのような決断ができるような人は少ないというか、ほぼいないと思います。

私もまた大した理由もなく生きています。

話は切り替わりますが、『人生時計』というアプリをご存じでしょうか。

自分の人生を平均寿命と照らし合わせて残りの寿命を可視化するアプリです。

そのアプリによると自分の人生の25%はもう使い切ってしまったようです。

ここまでで何を成したなど考えるのも烏滸がましいような人生でした。

たまには刻一刻と減っている寿命を見て感傷に浸るのもありだと思います。

今、大学生だからこそできることを。

C0界隈に首を突っ込んで他大学ながら接触を図っているのもTwitterで全然かかわりのなかった界隈の人と交流するのも自分の人生を棒に振りたくないからだと思います。

大学生は時間があります。

新型コロナの影響で一人の時間も増えました。

人生に役立ちそうなことを選ぶ必要はないと思います。

小学生の時にできなかったキャンプに自分の運転で行ってみる。

友人で集まって再び卒業式をしてみる。

廃校になった小学校を使って鬼ごっこをしてみる。

全部楽しそうです。

誰かネットのみアクティブな私に声をかけていただければぜひ参加します。

よろしくお願いします。

話は二転三転するもの

私はこの一つのブログを書き上げる過程で少なくとも100回は別の動作をしています。

Twitterを見てみたり積読の本をちょっと読んでみたり。

一日で書き上げる人はすごいなぁと地の底から上を見上げて思ってます。

私に魔剤以外の集中法を教えてください。

できれば近日中にもう一個ブログを公開したいです。

それでは

手前勝手ではありますが

映画を見たいけれども

私はとても映画が見たいです。

特に決まった映画が見たいということでもないのですが映画館の雰囲気が良いのです。

映画の時に邪魔にならない程度の足元を照らす灯りやポップコーンの甘い香り。

全てがこれから映画を見る人の気分を盛り上げてくれます。

しかしながら私はこれからの未来で映画館で映画を見るのを良しとしません。

なぜなら映画に集中できないから。

どう頑張って集中しようとしても10分くらいで完全に飽きてしまうんです。

たとえ数か月前から気になっていた作品だったとしても。

『飽き』をリセットするために私はいろいろ試行錯誤します。

非常灯のあった位置を探すとかリュックの中のノートの形を手だけで確かめるとかです。

隣の人からはとても変な目で見られますが、仕方がないことだと割り切っています。

集中が途切れてしまうので一連の流れを捉えきることができません。

映画の感想なども全体を通してではなく「あそこの登場人物(1人のみ)がかっこよかった」とごく一部の感想が先に出ます。

決して不真面目なのではなくただの癖のようなものなのです。

できればそのような人もいるのだと心に留めておいてください

映画を映画館以外でも見てみたい

前述のように私は一本の映画を集中してみることができないです。

さらにはYouTubeにアップされている動画や音楽さえも。

流行の曲を覚えなければならないと感じたときは音源とカラオケ版を交互に2時間ぐらい流し続けて覚えます。

さて本題ですが、映画を映画館以外でも見たいということです。

具体的には家が一番わかりやすいと思います。

好きな時間で停止することができて別のことができるのは私にとってはかなりの理想です。

家で見る映画は手前勝手な映画の再生方法をしているので誰かと同時に見ることなど叶いません。

しかし、私は誰かと感想を共有することをしたいのです。

結果としてインターネットの感想書き込みサイトに逃げ込むことになります。

 

勝手にいきる

知らない人の迷惑を考えて生きているとどうしても息が詰まってしまいます。

私のような集中欠乏者は長時間の何かに耐えることが難しいのですから、適度な息抜きをしながら生活する必要があります。

私が将来の目標に掲げている仕事などは集中力がものを言う仕事だろうと思いますが、息の抜き方を覚えねば数十年の歳月を仕事にささげる事は敵わないでしょう。

力の抜き方を学び必要な時は集中する能力を時間があるこの時期だからこそ会得する必要があると思いました。

 

散文になってしまいました。

これ以上なにかを書いても醜くなるだけだろうと感じますので打切ろうと思います。

それでは。

自己肯定感の獣になろう

始めたばっかりの時って無限に進んでいける気がするよね

夏休みというまとまった時間だから資格でも取ればよいのに徒然なるままに今日もまた文章を書き散らしております。

これまでの人生を振り返れば皆さんも小学校の宿題を初日に20%くらい終わらせて一種の全能感に浸ったことがあるのではないでしょうか。

私は夏休みの宿題は最初に大半を終わらせ実に面倒な(読書感想文や工作などの)宿題はできるだけ引き延ばして夏休み最終日が目前まで迫ってからネットを見漁ってなんとかその場をしのいでおりました。

「初日にあれだけやったから」という免罪符を自身で発行することで精神の安定をしていたのです。

当然所謂『賢い』方々はより効率的な宿題の消化方法を心得ていて友人との共同研究にすることで一人にかかる負担を減らしたりしていたのです。

そんなことは露知らず、ただ一人でひいひい言いながら頑張っていたのはもう少し大人になればいい思い出としてふわっとした記憶になるのでしょう。

自己肯定感の獣になろう

ちょっと前に日本の子供は精神的な幸福度が低いことがニュースになっていました。

自己肯定ができない人もこれまでにあってきた人たちに沢山いました。

学校での成績で自分の才を一概に決めつけてしまうのはあまりに早計でしょう。

才能というものは得てして簡単には発見できない場所にあるものです。

学校で自分が底辺だったと気付いてしまったとしても案外別の場所では上位1%に慣れたりするものです。

社会に出てから出身大学のコンプレックスを感じたとしてもこれまでの活動を自分で認めることが大切です。

高学歴に胡坐をかいてのうのうと生きている人もいれば、足りぬ頭を必死に回して何かを作り出す人だっています。(当然行動しない人もいますが。)

要は『その人次第』ということです。

最初から自分の限界を決めつけたらその限界の80%まで行けば上出来だと感じてしまうことでしょう。

私のようなふわふわとした生き方は大層楽でしょうがあまりに軽すぎて言葉に含蓄がないとよく言われます。

さて、本題ですが最近Guianoさんの曲で『夜、眠るため』という曲を聴きました。

その曲の歌詞に『昨日よりもちょっと上を向こうそれが他人より下だって、構わず僕は僕をほめてあげよう』というものがあります。

この言葉に私は大層心が躍ったのです。

他人とのつながりが希薄になった今、自分を褒め、認めてくれるのは自分しかいません。

人から褒められることを期待するのは自由ですが期待の落差は案外心に刺さるものです。

自分を褒め、褪せていく感性に色を塗りなおすことはとても重要なことだと思います。

そのために、自制心をかなぐり捨てて完全に完璧に徹底的に甘やかす日も時として必要でしょう。

普段絶対しないことをしてみよう。

  •  公園で久しぶりにブランコに乗る
  • いつも買っているパンを50円だけ高いものにしてみる
  • 目覚ましをかけずに寝る 
  • スーパーマーケットでぴったり300円分考え抜いて駄菓子を買う
  • 行かない旅の計画を綿密に立ててみる

昔できなかったはずのことが案外簡単に出来るようになっているかもしれません。

否定から生み出すのは何もないとは言い切れないですが少なくとも私は肯定から何かを生み出すほうが爽快だと感じます。

子供のころの経験って重要だよね

『漫画やゲームはただの娯楽ではない』なんて月並みな言葉から始めます。

昔は山へ行ったり海へ行ったりして探求欲や探索欲を満たしておりましたが最近はめっきり暑くなってしまって一歩でも家から出ようものなら溶けて消えてしまうのでしょう。

さて、子供のころの経験は案外大人になっても覚えているという話です。

小学校のころに友人だと思っていた人が私の机の中からラノベを引っ張り出していたのを見て人間って怖いなどと思ったこともありました。

ポケモンをやっていて手持ちにいる『ひんし』のポケモンを見て何とはなしに言葉の意味を辞書で調べて恐怖に震えたこともありました。

結局何が言いたいかをまとめますと『感受性の豊かな時期に得た経験はどんな教材よりも頭に入る』ということです。

私は親に恵まれまして幼少期に姫路城や鳥取砂丘に連れられ、日本に存在する美麗なものを教えてもらいました。

当然その場では『なんかすごい』くらいにしか思わないのですが、数年後に改修工事に入った姫路城を見て過去の城の様子がすぐに浮かび上がっていたのは当時の鮮烈なイメージがあるからだと思います。

幼いころの思い出を大切に。

おわりに

最近は散歩を日課としているのですが、歩いていると頭がすっかり良くなった気になります。

書く予定もないようなブログのタイトルばかりが浮かんでは消えていきます。

生活に息苦しくなったら散歩をして思考回路を組みなおすのも手かもしれません。

それでは。

 

 

カフカの変身と介護って似てるよねって話

はじめまして

初めてブログを書くのがこんな内容でよいのかと不安になるばかりです。

2020年に大学生になりました。

経歴も特筆することがなくただ人波に流されて生きてまいりました。

よろしくお願いします。

 

カフカの変身について

変身の登場人物を列記すると

  • グレゴール(主人公、冒頭では唯一の稼ぎ頭、目が覚めると巨大な虫になっていた)
  • グレーテ(主人公の妹、虫になった兄の世話をする。バイオリンが上手)
  • 父(主人公の父、無職、虫になった息子を大層気味悪がり暴力を振るう)
  • 母(主人公の母、虫になった息子をみて気絶して以来話そうともしない)
  • 女中(序盤で登場する家事を行うお手伝いさん、途中で給金の都合でクビになる)
  • 老婆(物語の後半から女中の代わりのお手伝いさんとしてやってくる。グレゴールに興味津々)
  • 紳士(三人セットで登場。後半で部屋の間借りをするために来た)

こんな感じです。メインは上の二人だけですが。

変身は大きく分けると三部構成になっております。

 

一部

主人公である旅するセールスマンのグレゴールが朝、目を覚ますと虫になっているという突飛な設定から始まります。

自身の異常性に気付いたグレゴールは様々と思案を巡らせどうにかして部屋に引き籠ろうとします。

うごうごしていると仕事の支配人が登場し、部屋から出てくるように言います。

仕方がなく思い虫の姿のまま部屋から出ると皆が逃げ出してしまいました。

 

二部

グレゴールが虫になり家族の生活が一変しました。グレーテがグレゴールの世話をするようになり、部屋に食事を届けるようになりました。

それまでに好んでいた牛乳や新鮮な食べ物には見向きもしなくなり、腐った野菜やチーズといったものを好むように。

そしてグレゴールは虫の姿で動くことに慣れ部屋中を動き回っていました。

動き回ることを知った妹のグレーテは家具は邪魔になるだろうと考え、部屋から取り除くことを提案します。

家具が取り除かれていく様を見ながらグレゴールは過去の人間であった自分の痕跡を失うことであると考えていました。

家具運びの最中にグレゴールの姿をみた母親は気絶し、その様子をみた父親はグレゴールに林檎を投げつけ、グレゴールは満足に動けなくなるほどの大けがをしました。

 

三部

満足に動くことのできなくなったグレゴールにさらなる災難が襲い掛かります。

これまで世話をしていたグレーテは新たな働き口を見つけ勤め始めたので世話を熱心にしなくなったのです。

さらには三人の紳士が下宿することになり、ひどく整頓好きな彼らに生活スタイルを合わせるため不必要な家具をすべてグレゴールの部屋に押し込むようになりました。

夕飯時にグレーテが紳士たちの前でバイオリンを弾いている音が聞こえたグレゴールは部屋から這い出てしまいました。

三人の紳士は巨大な虫がいることに気付き虫に対する主人の対応に腹を立て家を出て行ってしまいました。

ここで我慢の臨界点を超えたグレーテは虫はもうグレゴールではなく、別の存在であると言い、追い出すことを決意します。

この時グレゴールもまた「消え失せなくてはならない」と感じていたのでした。

 介護ってつらいよね

グレゴールは虫になったと書いてあり、文面通り読み取ることもできますがここは趣向を変えて『虫』は何らかの比喩である、と考えてみましょう。

ぱっと思いついたのが要介護の人間でした。

これまで普通に過ごしてきたのにある日を境に人の手を借りなければならなくなる。

誰にも醜悪になった姿を見られたくないのに人様に見られ、挙句に悲鳴を上げて逃げられる。

意識だけははっきりしているのに満足な言葉も発することができず日常の動作をすべて妹に依存している。

虫になったグレゴールが出した体液は糞尿の比喩、麻布を被って隠れるさまなどはベッドの上で布団をかぶる様と似ているように感じます。

妹グレーテが一人で世話をしていたのもまた、最近の介護の雰囲気が表れていて何とも言えないグレーの感情が浮かびました。

 

ここまでさんざん書いておいて

文章を書くことを避けて生きてきた人生でございますので書く能力もまとめる能力も欠落しております。

乱文を書き散らすことでこれまでの知識のアウトプットをし、人のブログを読むことで新たな知識を吸収できればと思います。

 

それでは。